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本田宗一郎

本田宗一郎伝 ― 人を思い、夢を走らせた男 ―

1906年(明治39年)、静岡県磐田郡光明村――いまの浜松市天竜区。

鍛冶屋の火が夜通し燃える家で、一人の少年が生まれた。名は本田宗一郎。

父・儀平は腕の良い鍛冶屋だった。鉄を叩くたび、赤い火花が飛び散る。

「鉄は生き物だ。心を込めて打てば、応えてくれる」

その言葉を、宗一郎は子ども心に胸へ刻んだ。

ガソリンの匂いに魅せられた少年

小学校4年のころ、村に初めて自動車が走った。

エンジンの音とともに、ガソリンの匂いが風にのって漂う。

多くの人が「くさい」と顔をしかめる中で、宗一郎だけが深呼吸をした。

「胸がすうっとして、気が遠くなるような気がした」

――後にそう語った彼は、その日から生涯、機械とともに生きることになる。

暗闇でも修理できる整備工

1922年(大正11年)。尋常高等小学校を卒業した宗一郎は、

東京・本郷の自動車修理工場「アート商会」へ丁稚奉公に出た。

子守りと掃除ばかりの日々だったが、笑って言った。

「車を見ていられるだけで幸せなんだ」

やがて1年後、初めてスパナを握ると、水を得た魚のように動き始めた。

手先の感覚だけでボルトの締まり具合を見抜き、夜を徹して修理に没頭。

ついには「暗闇でもエンジンを直せる男」と呼ばれるほどになった。

1928年(昭和3年)、22歳にして「アート商会浜松支店」を任される。

どんな故障車も完璧に直す宗一郎の評判は全国に広まり、

総理大臣並みの収入を得るまでになった。


「困っているなら、俺がやる」――ピストン・リングへの挑戦

当時、ピストン・リングは高価で品質も不安定だった。

「これじゃ誰も安心して車を走らせられない。みんなが困ってるなら、俺が何とかしようじゃないか」

そうして始めた挑戦は、しかし、3万本作って合格3本という惨敗だった。

理屈を嫌い、感覚だけで挑んだ努力は壁にぶつかる。

それでも宗一郎は諦めなかった。

「俺はインテリが嫌いだ。だが、教わることを恐れちゃいけない」

30歳を過ぎて浜松高等工業学校(現・静岡大学工学部)の聴講生となる。

学生服を着て若者たちと並び、教授に試作データを見せると、教授は一言。

「炭素が足りませんね」

その一言で、世界が変わった。

炭素量を調整すると理想のピストン・リングが完成。

宗一郎は思わず唸った。

「理屈ってやつも、悪くない」

こうして彼は科学と職人技を結びつけ、ついにトヨタへの納品に成功。

ピストン・リングの特許は28件に及んだ。

それは、技術で人を助けたいという信念の結晶だった。

工場を失っても、夢を失わず

1941年、戦争の時代が訪れる。

従業員は徴兵され、空襲と地震で工場は崩壊した。

それでも宗一郎は立ち上がる。

新たに「東海精機株式会社」を設立し、製造の道を諦めなかった。

彼にとって“モノづくり”とは、生きることそのものだった。

戦後――妻を助けたいという思いから生まれた発明と会社設立

終戦直後、物資が不足していた時代、奥様のさちさんは日々の買い出しのために、重い荷物を乗せて遠くの坂道を自転車で登り降りするという大変な苦労をしていた。

その苦労を目の当たりにした宗一郎は、「妻の買い物を助けたい」という強い想いを抱いた。

宗一郎は、自転車を漕いで遠くまで買い出しにゆく妻を楽にしてやれないかと考え、自転車に取り付ける補助エンジンの生産を思いついたのだ。

旧陸軍の無線機用エンジンを改造し、自転車用補助エンジンを開発した。

この個人的な「妻を助けたい」という想いから生まれた発明が、やがて多くの人々の生活を助けるための移動手段というアイデアにつながり、ホンダの最初の製品である自転車用補助エンジン「Cub(カブ)号F型」、そして後の「スーパーカブ」へと発展していく。

1946年(昭和21年)、彼は「本田技術研究所」を設立。

翌年には自社開発エンジンを載せた『ホンダA型』を発表。

1949年、『ドリーム号D型』が誕生した。

その名の通り――宗一郎の“夢”が地上を駆け始めた瞬間だった。

見込んだ男に命を委ねる ― 藤沢武夫との出会い

ちょうどこの年、宗一郎は運命の男と出会う。

経営の天才・藤沢武夫である。

共通の知人・竹島弘の紹介で出会ったのは1949年8月。

二人は10分ほど話しただけで、互いの中に“自分にないもの”を見抜いた。

宗一郎は言う。

「藤沢という人間に初めて会って、これはすばらしいと思った。販売にかけては天才だ。俺の持ってないものを持ってる」

藤沢は静かに答えた。

「これから一緒にやるけれど、別れるときは損はしないよ。金の損得じゃない。何か得るものを持って別れる。だから得るものを与えてほしいし、自分でもつくりたい」

宗一郎はうなずいた。

「結構だね。金のことは任せる。だが、技術に口出しはさせない。人の命を預かる重責な機械を作るんだ。その一点だけは譲れない」

こうして“技術の本田、経営の藤沢”という最強の二人三脚が始まった。

互いの領域に干渉しない約束を交わし、絶対の信頼で支え合った。

やがてホンダは、町工場から世界企業へと飛躍する。

藤沢が引退を申し出た際、宗一郎は即座に言った。

「おれは藤沢武夫あっての社長だ。副社長が辞めるなら、おれも一緒に辞める」

1973年、創立25周年の年、二人はそろって現役を退いた。

それは“美しい共同引退”として、今も語り継がれている。

人を思う心、技術を越える心

宗一郎は人間好きだった。

困っている人を見ると、放っておけない。

水洗トイレがない時代の逸話だ。

1950年(昭和25年)12月のあるとき、料亭にてアメリカからの客が酔ってトイレに入れ歯を落としたのだ。

誰も拾おうとしない中、「こんなことになったのは招待した私たちの責任だ。オレが取ってくる」といいのこし、宗一郎は笑いながらパンツ一丁で汲み取り式トイレに入り、

入れ歯を探し出し、消毒し、自分の口にくわえて「大丈夫だ!」と踊って見せた。

頼まれもしないのに、人が嫌がることを率先してやる――。

それは若いころ辛い仕事を押しつけられた経験があったからだ。

「人に同じ思いをさせたくない」という、彼なりの優しさだった。

引退後、宗一郎は全国700か所の事業所・販売店を訪ねた。

中には、2~3人しか働いていないような、ものすごく地方の販売店もあった。

従業員一人ひとりと握手を交わして感謝を伝えた。

ある工場で、整備士に握手を求めたら、その手が油で汚れていた。

整備士はあわてて手を引っ込め、「洗ってきます」と言った。

しかし、宗一郎は

「いや、いいんだよ。その油まみれの手がいいんだ。 俺は油の匂いが大好きなんだよ」

といいその整備士を引き止めて、手をしっかり握ったのだ。

両手で。

嬉しそうにその手をながめて、

目を細めて、

手の油の匂いを嗅いていた。

きっと、宗一郎は、若き丁稚奉公時代、

無我夢中で体中オイルまみれになりながら自動車エンジンを修理していたあのころを、

走馬灯のように思い出し、心の中で青春の思い出をかみしていたのではないだろうか。

「あのとき、車を整備しているだけで、おれは最高に幸せだったよ」と。

宗一郎は、後年、言っていた。

「握手すると、みんな泣くんだ。

そして、その涙を見て、自分も泣くんだ」

全部まわって一人一人と握手して…

何年もかかった。

地上の翼

晩年、宗一郎は語った。

「人間はな、人の役に立ってこそ、本当に幸せになれるんだ」

1991年、宗一郎が亡くなったとき、社葬は行われなかった。

生前の遺言により、渋滞を引き起こす迷惑はかけられないという理由だった。

代わりに各工場で「お礼の会」が開かれ、従業員たちは静かに手を合わせた。

参加者は平服で弔問し、従来の葬儀の形にとらわれない格好で故人を偲んだのだ。

いかにも、堅苦しい形式を極端に嫌っていた宗一郎らしい「お礼の会」だった。

――修理屋から夢の創造者へ。

――困っている人を助け、仲間を信じ、夢を形にした男。

その名は本田宗一郎。

人を思う心こそが、技術を磨き、未来を走らせるエンジンなのだ。

やんちゃで堅苦しいことが大嫌いだが、人の命を預かる機械を作るため繊細緻密で精密で細部にこだわる。

しかし、大胆発想かつ過去に縛られない壮大な夢を描く。

すべては困っている人を助けるため。

そして、ともに成しえた人々への感謝。

未来を夢見る人を愛しともに信じてすべてを託した。

そんな男の一大人生であった。

さいごに。

本田宗一郎には、

「各個人の能力に差はなく、違いだけが存在する」

という考え方があります。

「各個人の能力に差はなく、違いだけが存在する」という考え方は、個々の能力の優劣ではなく、それぞれの持ち味や個性をどう活かすかが重要だという理念です。

これは、個々人の「違い」を尊重し、それぞれの力を最大限に発揮できるようにすることが、組織やグループ全体の力や価値創造につながるという考え方に基づいています。

結論。本田宗一郎は、名経営者である前に、卓越した自動車整備士だった。

本田宗一郎の名言

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